2011年10月アーカイブ

きょうのインデックスは…黒駒勝蔵 


江戸末期、静岡県の清水次郎長impact対決したことで知られる
甲州の侠客「黒駒勝蔵」

侠客とは、強い者を抑えて、弱い者を助けることを建前に活動していたやくざのこと。
勝蔵は、現在の笛吹市御坂町上黒駒地区で生まれました。本名は「小池勝蔵」です。


勝蔵は小池家の二男として育ち、25歳で家を出て、隣村の「吃安(どもやす)」とも呼ばれていた竹居安五郎(やすごろう)の下で賭け事を始めます。
この時代、飢餓による社会不安が広がり、博徒(ばくと)、いわゆるバクチ打ちが横行していました。

親分・吃安は関東最大の博徒で、脱獄していたため幕府から逃げていました。
やがて吃安が投獄され牢死すると、勝蔵は甲州博徒の親分として名を上げました。

明治になると、勝蔵は池田勝馬と改名し、官軍として戊辰戦争に参加。
しかし、明治4年、脱退の疑いや、殺人の罪をきせられ、
甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首されました。

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史料などによると、
勝蔵は「色白で丸顔の大柄な男、気の長い方でおっとり構えていた」とあり、

「親分になっても変わらず、ケンカなどで騒ぎ立てると
         
『じたばたしちょ。でたこたぁ治まる』とたしなめた」

と記録に残っており、現在で言うやくざとは違うが印象が伺い知れます。

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勝蔵などの博徒は村社会の中で必要とされていたという考えもあります。
幕末、幕府の勢力が弱まり役人の数も少なくなったことで、
村を取り締まる役割として、名主の息子の中から親分がよく出たそうです。
また、幕末から維新にかけての民衆のリーダーとして再評価する意見もあります。


さて、黒駒勝蔵とは対照的に、現在の暴力団・ヤクザは一般市民を脅かす存在になっています。
県内でも、今年5月から、暴力団同士の抗争が続いています。
県内の暴力団の犯罪検挙数は、昨年度238件と、その前の年に比べ増加upしています。

県では、今年4月「山梨県暴力団排除条例」を施行しました。

この条例の基本理念として、「3ない運動」があります。

そのone 暴力団を恐れないこと
そのtwo 暴力団に資金提供しないこと
そのthree 暴力団を利用しないこと

この3つです。

県では、暴力団の予備軍とも言われ、現在では一般市民にも危害を加えるなど悪質化している
暴走族の追放も啓発しています。

私たちが安心して生活できる社会になっていくといいですねconfident

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きょうのインデックスは…甲州水晶貴石細工


空気もすっかり入れ替わって秋色が深まってきましたconfident

まもなくmaple紅葉シーズンを迎える昇仙峡で、およそ1000年前、shine水晶の原石が発見されました。
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当時は原石のまま珍重されていましたが、江戸時代後期になると宝石を磨く技術が取り入れられ、甲州水晶貴石細工の歴史が始まりました。


甲州水晶貴石細工は水晶などの天然石の特徴を活かした工芸品です。

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細工に使う原石は水晶めのう翡翠(ひすい)黒曜石碧玉など。
原石の種類をはじめ、沢山の石の中から作品にあった素材を選びます。

同じ原石でも石一つ一つに独特の風合いがあり、同じ作品は2つとありません。

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加工は「鉄ゴマ」「木ゴマ」と呼ばれる研磨機を使います。

透かし彫り、浮き出し彫り、深肉彫り(ふかにくぼり)、線彫り、平押し彫りと呼ばれるfiveつの技法を駆使して手作業で丁寧に削ります。

この作業を“摺り(すり)”といって貴石細工の生命線ともいえるので細心の注意を払って
仕上げていきます。
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ちなみに皇室の三種の神器の一つといわれる「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
甲州水晶貴石細工の原点と言われています。


江戸時代後期には、水晶や翡翠を使った数珠や帯留め、根付けなどが作られていて、産地として確立していた様子が資料に残っています。
さらに1855年に、フランスで行われた第1回パリ万博に出展され、質の高い研磨技術が
世界に認められました。


1000年もの歴史の中で、先人たちが育んできたこの研磨技術が、山梨県を名実ともに「宝石の街」に導いてきました。
現在、山梨県では12の工芸品を「山梨県郷土伝統工芸品」に認定していて、
そのうち3つは経済産業大臣が指定する「伝統工芸品」になっています。
甲州水晶貴石細工はその両方に指定されています。


県では今月11日から、都会で生活するvirgo女性などを対象にしたキャンペーン企画
「ビタミンやまなし」を展開しています。
「美容」「健康」「癒し」をテーマに山梨で体験できることなどについて、「A」から「Z」のアルファベットを26のビタミンになぞって紹介し、これらを体感してもらい、さらに山梨に興味を持ってもらおうというものです。

この中で、水晶などの貴石が含まれるのがジュエリーの「J」
県産ブランドの「Koo-fu」やジュエリー企業などを紹介しています。

今年度は、タレントの辺見えみりさんがキャンペーンメッセンジャーを務めています。

「甲州水晶貴石細工」などの郷土伝統工芸品とともに、山梨の魅力が沢山の人に伝わっていくと素敵ですねhappy01



今回紹介した甲州水晶貴石細工をご覧いただけるお出かけ情報です!

山梨県地場産業センター「かいてらす」水晶彫刻新作展
今月14日(金)~23日(日)まで開かれています。
水晶彫刻品の販売も行われるそうですよwink

詳しいことは、電話番号055-237-1641までお問い合わせください。

「かいてらす」のホームページはこちらです。



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きょうのインデックスは…清里


八ヶ岳の麓に位置する北杜市の「清里」。
この時季の清里は、すっかりmaple秋らしくなり、山の紅葉も始まっています。
 
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現在は、観光地として県内外から多くの人が集まる清里ですが、
実は、ほんの数十年前までは、多くが未開の地で、冬の寒さも大変厳しかったことから
「山梨の北海道」とも言われるほどでした。

昭和13年、奥多摩湖の建設に伴い、故郷が沈むこととなった丹波山村、小菅村の人々が、清里の地へ移り住み開拓が始まりました。

清里というとポール・ラッシュ博士がキープ協会とともに大変有名ですが、時を同じくしてこの開拓を支えたのが、当時、八ヶ岳開墾事務所長を務めていた安池興男氏です。
安池氏は、当時の農林省から県に出向してきた技官で、農業指導を始め献身的に開拓民をサポートしました。
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しかし、一面を覆うクマザサ貧しい土壌に、開拓は困難を極め、
ダム建設のために移転を余儀なくされたにもかかわらず、水不足に苛まれるといった皮肉な結果も加わり、開拓民は大変な苦労を強いられます。
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開拓当初の住居も粗末なもので、朝起きたら布団に霜が降りていたなんてこともあったそうですよthink
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そんな開拓民の生活をなんとか改善するため、安池氏は、自らの生活を顧みず支援を続けました。
開拓民への肥料の提供や、school小学校建設への協力などをはじめとした安池氏の尽力は、開拓民との絆とともに、今もなお語り継がれています。

その開拓民との絆の象徴ともいえるのが、清里八ヶ岳地区の興民館です。
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通常、公民館の「公」は、「おおやけ」という字を用いますが、
こちらの興民館は、安池氏の名前「興男(おきお)」から一文字取り「興す」(興味の「興」の字ですね)が使われています。
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今では観光地として有名な清里ですが、多くの苦労や様々なドラマがあったんですね。
 

さて、山梨県では、近年増えつつある耕作放棄地の対策として
「耕作放棄地等再生整備支援事業」などの各種対策を進めています。
詳しくは、山梨県農村振興課か各農務事務所、またはお住まいの市町村にお問い合わせください。

多くの恵みを与えてくれる豊かな農地。
今日紹介した「清里」のような先人の苦労の歴史とともに、大切にしていきたいですねconfident


イベント情報ですsign01

今週末の15日と16日に、清里では「カンティフェア2011」が開催されます。
 
このお祭りは安池氏と同時期に、やはり清里の発展に尽くしたポール・ラッシュ博士が始めたお祭りといわれています。

皆さん、是非お出かけになって、開墾された豊かな農地への感謝と、開拓時の歴史に触れてみてはいかがですかhappy01


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きょうのインデックスは…甲府藩


江戸時代、甲府藩は、谷村藩などと並ぶ甲斐国(かいのくに)に栄えた藩の一つです。


甲斐国は、戦国時代に武田氏により統一、武田信虎から信玄の時代にかけて甲府に府中が移され、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を中心とする城下町が形成されました。

武田氏が滅亡すると、一時、織田信長は、家臣・河尻秀隆(かわじりひでたか)に甲斐一国を与えますが、信長が亡くなると、甲斐では元・武田家臣による一揆がおこります。
これによって領主は殺害され、甲斐国は領主がいない状態に陥り、その後、徳川家康の支配になります。

家康は、家臣に新たに甲府市・現在の県庁や舞鶴城公園がある場所に甲府城を造らせ、豊臣系の大名に甲斐国を支配させました。


関ヶ原の戦いの後、甲斐は、徳川家直系による支配を受けますが、その後の改革で
幕府直轄領になります。
それからおよそ20年後には3代徳川家光の三男である徳川綱重が甲斐の支配を許され、
この時、初めて甲府藩が成立することになりました。


1704年、5代将軍・綱吉の側用人、柳沢吉保が甲府城主に任命されます。
柳沢家は甲斐源氏の一族、一条家の末裔にあたります。

柳沢吉保は学問に熱心であった綱吉の弟子として寵愛され、先祖の出身地である甲斐の領土と、甲府城を与えられ、事実上甲斐一国を支配することになりました。

吉保が、特に力を入れたのは、甲府城と城下町の整備でした。

異例の出世ぶりは、しばしば作品の中で陰謀をめぐらす策略家として演出されますが、
吉保が他の大名と交わした書簡を見ると、幕府の行事や将軍の意向を気にかける大名らに丁寧にアドバイスしていて、彼の律義で誠実な仕事ぶりが分かりますconfident

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甲府城築城期の石垣 「甲府城の内堀の石垣」写真提供:山梨日日新聞2011.9.9掲載 



さて、県立博物館では、このmaple「柳沢吉保と甲府城」の企画展を開きます。
10月8日(土)~11月28日(月)まで行う予定です。

県内外に伝わる吉保の書簡や甲府城跡から出土した当時の遺物、また恵林寺に伝わる
柳沢夫妻愛用の調度品など、これまでほとんど公開されたことのない、
柳沢家ゆかりの貴重な文化財が展示されます。

詳しいことは県立博物館へお問い合わせください。

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↑山梨県立博物館のホームページへはこちらの画像をクリックしてください。


甲府城周辺を整備した柳沢吉保の偉業を、この目で確かめてみてはいかがですかhappy01


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