2010年6月アーカイブ

今日のインデックスは・・・日照時間 日本一!


6月21日は「夏至」でしたね。

夏至は、二十四節季の一つで、sun太陽の高度が最も高くなり、北半球では、一年の中で昼間の最も長くなる日です。
日焼けの気になる時期でもありますね~注意してくださいねwink



日本の中でも日照時間がトップクラスの山梨県。

特に、ヒマワリ畑が有名な北杜市明野町の日照時間はfuji日本一!

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この地域の日照時間が「日本一」であることが全国に知られるようになったのは、地元の
北杜市立school明野中学校の「気象観測委員会」によるeye観測活動がきっかけだったんです!

明野中学校「気象観測委員会」は1980年(=昭和55年)8月の発足以来、生徒が毎日の気温や雨量、日照時間などをpencil記録しています。 

委員会が発足した翌年(1981年1月~12月)の年間日照時間は2939.5時間を観測。(一日平均すると、8時間以上です!) 気象庁の観測データによると、その年日本一の南鳥島の記録をおよそ5時間上回っていたんです。

観測を始めてから現在までの明野の年間平均値は2595時間! 
理科年表によると、1971年~2000年の平均値で、日本一の高知県・清水は2202.3時間ですので、明野は、それをはるかにupwardright上回っています。(ちなみに甲府は2128.7時間 全国5位)

生徒たちの長年の努力によって、“日照時間日本一の明野”と実証しました。

現在、百葉箱は自動観測機器に変わったものの、今年度も13人の生徒が観測を続けているそうです。


でも、なぜ、晴れ間が多いのでしょうか?

この地域では古くから「茅ヶ岳には雲がかからない」という言い伝えがあるほど、晴天率が高かったようです。
これは明野の地形が原因のようで、明野の一番低い所を、北から東南にかけて塩川が流れていて、一年を通じて川沿いに風が吹き、上昇気流が起こりにくく、そのため茅ヶ岳に雲がかからなく、sun太陽の光が降り注ぐことになるためと言われています。



山梨県では、『地球に優しく、自然の息吹とともに暮らす』。という想いを実現するため、太陽光などの自然エネルギーを積極的に活用して、温室効果ガスの排出量を削減し、森林整備による二酸化炭素の吸収などで、CO2排出量と吸収量が均衡する「CO2ゼロやまなし」の実現に向けて行動しています。

この中でも東京電力と共同で整備を進めている、甲府市の米倉山(こめくらやま)のソーラー発電所は、内陸部では国内最大規模のメガソーラー発電所!完成すれば、一般家庭3400軒分相当の電力を発電できるそうなんです! 
現在、2012年1月の営業運転開始を目指して準備が進められています。

日照時間に恵まれた山梨・そしてsunソーラー王国の山梨のシンボル的な存在になりそうですね!

また、一般家庭で、ソーラー発電設備を設置する場合には補助制度もあります。
詳しくは県・環境創造課のHPをご覧ください。

県・環境創造課のホームページはこちらです!


sun太陽の恵みを存分に生かして、みんなで「CO2ゼロ」のやまなしを目指しましょうhappy01

今日のインデックスは・・・河文書」(いちかわ・もんじょ)。


「市河文書」とは、市河家に伝わる戦国時代のmail手紙のことです。
歴史上たいへんeye注目される古文書なんですが、なぜかといいますと・・・

それは、存在そのものが謎に包まれていた山本勘助に関係しているからなんです。

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山本勘助像(狩野了承筆)江戸時代 山梨県立博物館所蔵


keyキーパーソンは、「市河 藤若(いちかわ とうじゃく)」という人物。

市河藤若は、戦国時代の北信濃の武将。
市河家は元々、甲斐の国の武家で、鎌倉時代に北信濃に渡り、その地の豪族として繁栄しました。

同じ頃、甲斐国守護であった武田信玄は、信濃侵攻を本格化させ、
天文年間には(=16世紀半ば=戦国時代半ば)善光寺平より南を制圧するとともに、北信濃へ進出を始めました。
武田家による北信濃進出により、この地域の豪族を守っていた越後の上杉謙信と、川中島impact合戦を繰り広げることになります。

武田軍は、北信濃の豪族を攻略し、市河家も武田側に帰属しました。


武田家に仕えた武将・山本勘助。

「武田流兵法」を創り、「啄木鳥の戦法」を計画、進言したとされている名軍師として有名ですよね。

しかし、歴史上、山本勘助の名は、江戸時代に書かれた軍学書の『甲陽軍鑑』にしか登場がなく、 
「架空の人物である」という説が有力だったのですが、昭和の半ばに、この説がくつがえります。


昭和44年、北海道に渡っていた市河家に伝わる文書=手紙の中に、武田信玄が、市河藤若に宛てた手紙が発見されました。 
冒頭に登場したkeyキーパーソンです。


その内容は・・・

弘治3年(1557年)6月23日付けで、藤若の忠節を褒め称えるとともに、周囲の軍事情勢を知らせるもので、手紙の最後は、「なお 山本菅助 口上あるべく候(そうろう)」(【猶可有山本菅助口上候】)と結ばれていました。 

この意味は、「詳しくは山本菅助を使者として送る」ということです。 

そこに「山本かんすけ」の名が記されていたんですhappy02

この文書の発見によって、「信玄の近くに仕えた者の中に、存在したことは事実らしい」という説が有力になりました。


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信玄が市河藤若に宛てた書状(山梨県立博物館所蔵)


山梨県立博物館では、去年、市河家に伝わる古文書を収蔵。
この中には、武田信玄が「山本菅助」と記した文書も含まれています。


笛吹市御坂町にある県立博物館では、来月7月5日(月)まで
「シンボル展・実在した山本菅助」の特別展示を開催しています。

この展示では、新発見の「市河文書」などを中心に、戦国時代から江戸時代を生き抜いた山本菅助と、その一族の軌跡を紹介しています。

展示資料の中には、新たに発見された、信玄が直接「山本菅介」に出した文書もあり、幻とされた菅助の実像が明らかになりつつあるんですね。

皆さんも是非、ご自身の目で「山本かんすけ」を確認してみてはいかがでしょうかhappy01!?

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山梨県立博物館のホームページはこちらです!


※文書によって「菅助」や「菅介」と書き方が変わっています

今日のインデックスは・・・「ジベレリン処理」。


山梨では、「種無しぶどう」を作るための作業として知られています。
「ジベ処理」と言った方が、なじみがあるでしょうか。

この季節、山梨の風物詩ですねhappy01

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新緑のぶどう畑


このジベレリン処理による「種無しぶどう」の技術、実は偶然によるflair発見だったんです。

今から50年ほど前、現在の笛吹市春日居町にあった県の農業試験場で、デラウェアの房を長くしようと、成長促進作用のあるジベレリンでの処理をしたところ、実が「種なし」になったそうです。
その成果から研究が進められ、「種なし技術」が確立されていきました。

「種なしぶどう」の技術は、山梨で生まれたんです。


このジベレリン処理、ぶどうを「種無し」にして食べやすくなるのはもちろんですが、実を大きくさせるとともに、生育も早める働きがあるので、需要が高まるお盆シーズンの収穫が可能になり、山梨のぶどう生産量を大きく伸ばすこととなったのです。



ジベレリン処理は、処理溶剤をカップに入れ、一房ずつ浸していくのですが、処理溶剤は無色透明なので、作業をしているうちに、どの房が処理溶剤に浸したものか判らなくなってしまいます。
そこで、処理溶剤に食紅を混ぜることで、房にも色が付き、判別できるようになりました。

しかし、ジベ処理の時季になると、食紅の入った処理溶剤が作業着や手や腕、顔にまで付いてしまい、ぶどう農家の皆さんは食紅で真っ赤になってしたとのことですwobbly

現在では、専用の食紅を使用したり、処理溶剤が手首のところで止まるpaper手袋が開発されたりしたので、昔のようには、真っ赤にはならないそうです。

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この手袋で以前より作業がしやすくなっています。


ジベ処理は時期をずらして2回行われます。
one回目は種無しにするためで、two回目は実を大きくするため。
一房、一房、地道な作業ですよねcoldsweats02



山梨が誇る、ぶどうの産地・勝沼では、school中学生がジベレリン処理を手伝う行事が、40年以上も続いています。

今年も5月の下旬に、勝沼中学校の2年生が、ジベ処理を体験しました。
生徒達からは、「腕を上に挙げ続けての作業は疲れるけど、学校の授業より楽しい。」coldsweats01とか、「ぶどうの栽培は、大変なことだとわかった。」といった感想が聞かれました。

先人たちが築いた、ぶどう栽培の歴史や技術を、特産地ならではの体験を通して学ぶって、素敵なことですよね。

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一房、一房・・・大変な作業です。

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農家の皆さんが手塩にかけて育てた山梨のぶどう。
ぜひ、県外の方へ贈ってみてはいかがでしょうか? きっと喜ばれますよnote

山梨県外の方は、ぜひぶどう狩りにいらしてくださいhappy01

今日のインデックスは・・・「農薬ドリフト」


「ドリフト」というとrvcar車の走行技術を思い浮かべる方もいるかもしれませんが、この言葉には、
「流される」とか「漂う」という意味もあります。


そして、今回の「農薬ドリフト」とは何かというと・・・

農薬は、病害虫や雑草による被害を防止するために、農作物の栽培に欠かせないものです。

しかし、粉や液体状の農薬は作物に散布する際、散布方法やその時の環境によって、違う作物などにも飛散してしまうことがあります。

この農薬が飛散してしまう状態を「農薬ドリフト」と言います。

まいた農薬が隣の物に飛散してしまうと、収穫物から使用していない農薬が検出される可能性があります。


平成18年に「ポジティブリスト制度」が導入され、原則、国内外で使用されている農薬のすべてに、残留農薬基準などが設定され、基準値を超えた食品の販売などがban禁止されています。


農薬の「使用基準」に従って適切な使用をする限り、大きな問題が生じることはありません。しかし、ポジティブリスト制度の導入に伴い、農薬のドリフト=飛散については、これまで以上にeye注意が必要になります。


山梨県は様々な作物が栽培されています。違う種類の作物が隣接して栽培されている場合、農薬ドリフトによって、収穫物から散布していない農薬が検出され残留農薬基準値を超える可能性もあります。


そこで農薬散布をする際にdanger注意していただきたいことが、いくつかあります。


danger風の強さや向き、また散布する方向や散布する位置に気をつけて、できるだけ作物の近くから、
    作物だけにかかるよう心がけてください。

danger「スピードスプレーヤー」=通称SSを使用する場合は、畑の端での旋回時には、外側向きの噴霧は
    止めてください。

danger畑の条件にあわせた散布機のノズルを使用してください。
   粒子が細かく、圧力を高めるほど、飛散しやすくなります。

danger使用方法に定められた量を散布し、散布量が多くなりすぎないようにして下さい。

dangerまた、住宅地と隣接している畑では、住宅方向の飛散に注意してください。


農薬の使用に関する全般的なことは
県・農業技術課 電話 055-223-1618までお問い合わせください。 


heart01安全な食品のために、農薬ドリフトには充分に気をつけていただきたいと思いますconfident

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