2013年6月アーカイブ

今日のインデックスは…笛吹権三郎
 
笛吹市のほぼ中央を流れる笛吹川。その昔、笛吹川は大雨が降ると氾濫し、周辺の人々を悩ませてきました。
 
特に明治40年(1907年)の大水害では県下全域に大きな被害があり、笛吹川の流れを大きく変えてしまいました。
 
当時は今の第二平等川に流れていた笛吹川ですが、河川改修などにより、現在の位置に流れるようになりました。
 
笛吹川はかつて、北から西、十二支でいうと子から酉に流れていたため、「子酉(ねとり)川」と呼ばれていました。そして子酉川が笛吹川と呼ばれるようになった由来に笛吹権三郎の伝説があります。
 
昔、笛の名手「笛吹権三郎」と年老いた母親が子酉川のそばに暮していました。
 
天正5年(1577年)7月の豪雨で川が氾濫し、権三郎の家は川に流されてしまったそうです。権三郎はなんとか助かりますが、母親は濁流にのまれ、行方不明になってしまいます。
 
笛の音が母親を呼び寄せると考えた権三郎は笛を吹き続けます。しかし母親は見つからず、権三郎もいつしか川に流されてしまい、亡くなってしまいました。
 
これ以降、川の音が権三郎の吹く笛の音のように聞こえることから、笛吹川と呼ばれるようになったと言われています。
 
笛吹権三郎の伝説や史実などからもわかるとおり、激流と戦いながら生きてきた昔の人々。生活に無くてはならない川の存在は非常に大切なものだったと思われます。
 
ちなみに7月は『河川愛護月間』です。今の時代の私たちは河川環境の保全につとめ、美しい川を残していきたいですよね。
 
初夏のこの季節、川のせせらぎにそっと耳を傾けて涼を感じてみてはいかがでしょうか。

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今日のインデックスは…禊祭り

甲州市にある菅田天神社。創立は842年といわれている歴史ある神社で、学問の神様、菅原道真公をお祀りしています。
 
社の位置が甲斐府中の鬼門に当たるため、武田家は重宝である楯無鎧(たてなしのよろい)を預けるほど重要視していました。この鎧は現在、国宝に指定されています。
 
その菅田天神社で毎年6月30日午後5時から行われるのが『禊祭り』です。当日は人形(ひとがた)の紙に家族の氏名・年齢を記入して、息を吹きかけて身を撫でて、罪、けがれを人形に移して神社に納めます。
 
そして、随身門に設けられた茅の輪を八の字にくぐり、暑い夏を迎えるに当たって無病息災を祈ります。
 
昔も暑い夏は体調を崩してしまう事が多く、それを防ぐために神に祈りを捧げていたんですね。
 
 
さて夏といえば、気をつけたいのが熱中症です。梅雨明けの7月下旬から8月上旬にかけて特に多くなります。
 
熱中症は、気温だけでなく、その日の体調や暑さに対する慣れなども影響します。気温がそれほど高くない日でも、湿度が高かったり風が弱い日などは注意が必要なんです。
 
そして、家の中でも熱中症は起きます。人間は知らないうちに汗をかいて、体温調節をしています。
 
水分を摂らないと、自覚がないまま脱水症状目前になっていることもあります。ですから、こまめに水分と塩分を補給することが大事です。
 
でも、アルコールやカフェインの多い飲み物は利尿作用があるため、逆に水分を多く排出してしまうことがあります。
 
また、子どもがスポーツドリンクを大量に摂り続けると、糖分も大量に摂取することになります。すると急性の糖尿病のようになってしまうことがあるので注意が必要です。
 
今年の夏も猛暑が予想されています。体調管理には十分気をつけて健康に乗り切りましょう。
 
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今日のインデックスは…猿橋


「昔むかし、猿が枝伝いに川を渡るのを見たところから、両脇から梁を伸ばしてさらに重ねていき、橋をつないだ」という“猿橋”の伝説、みなさん、知っていましたか?

大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」は、山口県の錦帯橋、徳島県のかずら橋とともに、
日本三大奇橋の一つに数えられています。
 
長さ31m、幅3.3mのさほど大きくない木の橋ですが、谷底までが31mと非常に深いことから、橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支える珍しい橋になっています。
 
本来このような高所には吊り橋が用いられることが多いのですが、
猿橋は、はね橋という構造で造られているんです。
 

はね橋は、岸の岩盤に穴を開けてはね木を斜めに差込み、中空に突き出させます。
その上に同様のはね木を突き出し、下のはね木に支えさせます。  

支えを受けた分、上のはね木は下のものより少しだけ長く出し、これを何本も重ねて、
中空に向けて遠くはね出していく構造になります。
 
この構造で、およそ500年以上前からあったとされる猿橋には、それぞれのはね木に屋根が付けられて雨による腐食等を保護していますが、今日までに十数回の架け替があったと言われています。

 
また、昭和7年に国の名勝に指定された猿橋。
周辺の景観は、古くからすばらしかったようです。
 
江戸時代の、歌川広重の作品「甲陽猿橋之図」に当時の模様が描かれています。
広重はこの地の景観に感動し、「言語に絶えたり、拙筆に写し難し」と旅日記に残したそうです。
 

今度のお休みには、「猿橋」と周辺の自然景観、ぜひ楽しまれて見てはいかがでしょうかconfident

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今週のインデックスは…快川国師


「心頭滅却すれば火もまた涼し」。

皆さんによく知られているこの言葉。これを唱えたのは、快川紹喜(かいせんじょうき)
戦国時代の臨済宗の僧侶です。

武田信玄に招かれて、恵林寺に入ることになりました。
県民の皆さんには快川国師として知られていると思います。


甲斐の国との関係が始まるのは、1554年に快川国師が恵林寺住持となってからで、
信玄の母、大井夫人4回忌の法事に関わったそうです。    

この時の在任期間はおよそ2年と短かったですが、信玄との交流はこの時期から始まったのではないでしょうか。

その後、快川国師は、信玄の熱烈な勧誘により1564年、再び恵林寺へ入山し、
そして信玄は、恵林寺を自らの菩提寺としました。

快川国師は、不和となった信玄の嫡子、義信との間を取り持って和解させる努力をするなど、内政の面でも大きく関わります。

その他にも 上洛を望む信玄と美濃の斉藤竜興を連携させようと奔走するなど外交面にも力を発揮し、とても重要な役割を果たしました。


信玄の死去後も、快川国師は、恵林寺に留まり、武田氏の存続に尽力しますが、
1582年の武田氏滅亡時に、織田軍の攻撃を受け、恵林寺の三門で焼死してしまいます。

そのとき唱えたといわれている言葉が、「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのです。

「精神力の強さ、心を整えることの大切さ」という教えは今の時代にも生きています。


現在、恵林寺には、快川国師の言葉が掲げられた三門以外にも、    
1606年に建立された国の重要文化財の四脚門など歴史を垣間見える建立物があります。

新緑のこの季節、恵林寺に足を運び、戦国時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうかconfident


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